「へぎそば」誕生物語

第1話 伝統の味、新たなる挑戦
~ 『へぎそば』が生み出す感動のストーリー ~

                       

 新潟県魚沼地方発祥、小千谷市・十日町名産の、布海苔(ふのり)と呼ばれる海藻でそば粉をつなぐ珍しいお蕎麦「へぎそば」。蕎麦好きなら一度は聞いたことのある新潟の郷土料理です。「へぎ」とはお蕎麦を盛る器のこと。四角い木の器に一口大にして丸めたお蕎麦を盛り付けます。通常、そばのつなぎには小麦粉を使いますが、へぎそばのつなぎは布海苔を使います。もともと小千谷縮や十日町紬の産地として栄えてきたこの地では、特産の織物の仕上げに布海苔を使用してきたそうです。それを蕎麦のつなぎに使うことによって、へぎそば独特のコシと食感が生まれました。布海苔をつなぎにするための工程は門外不出といわれ、店主のお師匠曰く、お弟子さんにも身内にもその工程は絶対に見せない…といわれるほどのものであったとか。。。

 当店は北関東で唯一、生のヘギ蕎麦を提供しているお店と自負しておりますが、これまでヘギ蕎麦が出来るまでのストーリーを公でお話してきたことはありませんでした。お店にご来店されたお客様やイベント等でお逢いしたお客様に、機会があった時に細々とお話してきた程度です。

 一介の蕎麦屋である店主がこの栃木県小山市で、門外不出といわれた布海苔を使って「へぎそば」を完成させるまでのストーリー。よろしければ、小山市の片隅で地道に蕎麦屋を営んできた店主の昔話に耳を傾けていただけましたら幸いです。。。

第2話 東京の思い出
~ 父から聞いた『へぎそば』のはじまり ~

                       

 さて。昔話を語る前にひとつお願いがございます。これは聞き手である娘「私」が、父である「店主」から聞いたお話です。なにしろ齢八十を超える店主の記憶ですので、いろいろと細かな部分で記憶違いがあるかと思います。そのあたり、ぜひとも温かい目で見守ってくださりますようお願い申し上げます。

 父である「店主」が東京にある米屋に就職したのは、昭和30年の頃であったとか。当時の日本はまさに高度成長真っただ中の時代です。父曰く「小僧で働いていた時はそりゃもう大変だったけど楽しかった!」そうで、十代の青春真っ盛りの店主の目には東京がきらきら輝いてみえていたのだろうなあと想像に容易いことです。

 そんな小僧だった店主、仕事上よくあちこち配達に行っていたそうで、その中に一軒、早稲田のとあるお蕎麦屋さんがあったそうです。店主はよくそのお蕎麦屋さんの旦那さんと、あれこれ話に花を咲かせていたとか…(仕事をサボっていたわけではないと思います、たぶん。笑)旦那さんの話の中によく「へぎそば」という、これまで聞いたことのない名前のお蕎麦の話があったとか。蕎麦屋「浅野屋」の旦那さんは新潟県小千谷市の出身で、地元新潟を懐かしむようによく話してくれたそうです。やれ、新潟は寒いから小麦粉が取れなくて代わりに布海苔を使ったとか、布海苔は織物の糊付けのために使っていたとか、布海苔を繋ぎに使うための作り方は絶対に誰にも教えないんだよ~とか、、、そんな話を店主はよく聞いていたそうです。

 そんなこんなで貧しくとも実りある東京ライフを送っていた店主でしたが、数年たったある日、実家の都合で田舎に戻らざるをえない時がきたのでした。。。

第3話 挑戦と絶望、そして再び
~ 『へぎそば』への熱き想い ~

                       

 実家に戻ってきた店主、家の稼業である食堂を手伝うこととなりました。当時食堂を営んでいたのは、店主の母(私からみると祖母となります)。ラーメン・焼きそば、大判焼き、かき氷などなど…いわゆる大衆食堂です。周りに同じようなお店がなかったせいか、当時は大変忙しかったそうです。時は昭和40年代、日本は高度成長時代後期の頃、国民総生産も世界2位に躍進するなど、世の中はもうブイブイいっていた時代です。多忙を極めながらも、東京で小僧をやっていた頃に食べた蕎麦の味が忘れられなかった店主は、蕎麦屋になることを一大決心、再度東京へ修行に行くことにしました。

 そうして、蕎麦屋「浅野屋」の暖簾をくぐったのでした。そうです。以前米屋の小僧をやっていた頃よく配達に行っていたお店です。新潟県小千谷市出身の、関口美作さんの経営するお蕎麦屋さんでした。修行中もよく「へぎそば」の話を 師匠から聞かされたそうです。飲むと必ずその話になったのだとか…

 修行が終わり地元に戻った店主は、母がやっていた食堂を蕎麦屋に業態変更し、屋号を「浅野屋」へ…(その後さらに「浅野屋茂兵衛」と変わります)。暖簾分けしていただいた屋号に変えて、改めてのリスタートとなりました。その後、順調に営業していながらも、周囲の変化に少しづつ危機感を持つようになった店主。もともと近所にはラーメン屋が多かったのですが、蕎麦屋も増えてきたのです。師匠がよく言っていた「へぎそば」のことが店主の頭をよぎるようになりました。「このままではいけない…何か、よそとは違うことをしないと…よく師匠に聞いていたへぎそばはどうだろうか?…遠く新潟まで行かなくても、ウチに来たら食べられる…そうだ!へぎそばだ!へぎそばを作りたい!」その思いが頂点に達した店主は、家族を説得し、話を聞いたことしかない「へぎそば」を作ることを決意したのでした。まずは本場新潟のへぎそばを食べに行くことにしました。休みの度に、何度も何度も食べに行ったそうです。食べに行っては作り、食べに行っては作り、ヒントになりそうな話を聞けるならどこにでも出向いたそうです。

 そうして数年…一番のキーである布海苔の工程がどうしてもネックだったそうで、へぎそばになったときのあの綺麗な緑色がどうしても出せない…安くはない布海苔を何度捨てる羽目になったことか。。。始めの頃は応援していた家族も、いつしか「こんなにやっても出来ないのなら、もう諦めたらどうか?」と、とうとう言うようになっていったそうです。。
どうする店主?!

第4話 諦めずに挑戦し続けた、
へぎそばへの情熱

                       

 当店店主がへぎそばを作ることを決意して数年、へぎそば独特の色みが出せずにあれこれ試行錯誤するもどうにもならず、とうとう一歩も動けなくなってしまいました。応援していた家族も完全に諦めモード…しまいには、もうやめたらどうか?と言い出す始末。店主もどうしたものかと考えあぐねてしまいました。諦めるのは簡単。だけどそうしたらそこですべてはお終い。どうしても諦めたくなかった店主は再度家族を説得し、粘り強く研究につぐ研究の日々を送り続けることに…

 そうしてさらに数年…やっと思い描いていた色みを出すことに成功しました!へぎそばを作ろうと思い立ってから、気づけばもう5年近くも月日が経っていました。。。やっと納得のいくへぎそばをお客様に提供することができる…!!!そう意気込んで売り出し始めた「へぎそば」。

 ふたを開けてみたところ…まっっっっっっっっ………たく売れなかったのです………それからというもの…作っては捨て、作っては捨ての日々がまた始まりました。当店のある地域、お蕎麦といえば昔から黒っぽくてボソボソとした口当たりの、いわゆる「田舎そば」がよく食べられていました。コシがあってツルツルとのど越しのよい、きれいな緑色の「へぎそば」は、地元のお客様にはまったくウケなかったのです。地域性なのか、どちらかと言えば「いつも食べてるいつものあの味」的なものを好まれる傾向があるようで、なかなか新しいものにチャレンジしていただくことが難しいのでした。ただでさえPR下手な店主夫妻。あれこれやってはいたのでしょうが、結果が伴わずに悶々とした日々を送ることになりました。

 はてさて、売り始めてからさらに何年も過ぎた頃、ある日ふと店主がひらめいたそうです。地元がダメなら、だったら、他所のイベントに出てみてはどうだろうか?…と。どうにかしてへぎそばが売れるようになるための解決の糸口が欲しかった店主は、良さそうなイベントがないか手当たり次第探しまくりました。そうして白羽の矢が立ったのが、2002年初開催の「今市そばまつり(日光そばまつり)」だったのでした。

第5話 挑戦を続け、
本場のプロに認められたへぎそば

                       

 毎年11月半ば頃に開催する「日光そばまつり」…旧名今市そばまつり。コロナ禍前、3日間で10万人が来場する栃木県では有名なそばのイベントです。日光だいやがわ公園で初めて開催したのは2002年のこと、当初は10月後半に行っていたそうです。

 初めての大きなイベントだった店主は、どれくらいのお客様がいらっしゃるのか、どれくらいの量を用意すればいいのか、何もかもがまったくの未知数だったそうです。しかも3日間もあります…とにかく売り切れ御免でへぎそばを準備して持っていったそうです。

 結果は…初年度はさほど売れませんでした。。それでも、翌年も、その次の年も、出店を続けました。結果が出るまで時間がかかろうとも、とにかく毎年出る!!と決めていた店主は、出店を続けました。数年経った頃…それまでのPRを変えてみたところ、お客様のご来店が少しずつではありますが増えはじめました。少しずつへぎそばが売り切れるようになり、少しずつ売るそばの量を増やしていきました。

 さらに数年後、とあるお客様がご来店されました。それは団体のお客様でした。お食事後わざわざ感想を伝えに釜場に立ち寄ってくださったのですが、なんと!その団体様はへぎそばの本場、小千谷市の、へぎそば保存会(※注)のみなさまだったのです…!!「このへぎそばなら、”へぎそば”と名乗ってよし!」との、有難いお言葉をいただきました。へぎそばの本場の、しかもその道のプロのお客様にです…!!…これまでなかなか売れずにいたへぎそばですが、やっと自信を持つことができたのでした…

 本当に...途中で止めなくて本当に良かった…
店主は心の底からそう思ったそうです

(※注)へぎ蕎麦保存会のお話は、何しろ15年ほど前の話のため店主の記憶が曖昧です。その点どうぞご了承くださいませ。

最終話 挑戦と絆、そして感謝
~ 40年の軌跡が紡ぐ物語 ~

                       

 コロナ禍を経て、「日光そばまつり」は廃止の決定がなされました。2019年度が最後のお祭り…奇しくもその年、当店は店主高齢のためを理由に、最後のイベント参加と銘打って出店しておりました。初回から出店していたので足掛け18年です。18年間毎年出店を続けた結果、3日間開催でトータル3000食は毎年出るようになり、お客様から「今年もまた来たよ~!」とお声がけをいただけるまでになりました。

 「日光そばまつりで食べたことがあって…」という理由で、わざわざ宇都宮や県外から、店舗にお客様がご来店されるようにもなりました。やっと、浅野屋=へぎそばのお店…という風に、世間様に知られるようになってきたようです。。

 店主が「へぎそばを作ろう!」と思い立ってから、はや40年。。「日光そばまつり」出店がきっかけで、じわじわじわじわと知名度を上げることが出来たようで、時間がかかりましたがお客様に「美味しい!」と喜んでいただけることが何よりもの幸せと、店主ともども日々実感しております。

 …いや~40年て、ほんとに長いな…(つい本音が…笑)よく諦めなかったなぁ…と、わが父ながら敬意を表したい気持ちでいっぱいです。。…そんなこんなで、今現在。地元のお客様からもようやくへぎそばコールをいただけるようになり、やっとのことで、当店の看板メニューとしてみなさまにご紹介できるまでになりました。これまでの店主の苦労を労う意味も込めて、「匠へぎそば」という商品名でお出ししております。たくさんの方に支えられながらここまで来られたことに、心より感謝申し上げます。店主の小僧の頃の思い出が、ようやく実を結んだ…そんな昔話でございました。

 さてさて、これで「へぎそば物語」は終わりとなります。現在も毎年のようにへぎそばを食べに新潟県を訪れています。有名店や地元の愛され店まで、地元の人にお話を聞きながらお勉強をさせてもらっています。ついでに温泉にもつかりつつ…笑 毎年春にお邪魔しているので、知り合いの山で旬の山菜なんかも取らせてもらってます。これも春の恒例メニューとして、へぎそばとともに、店主の手採り「山菜の天婦羅」として店舗でお出ししております。

 …いつもお客様に召し上がっていただくへぎそばの裏には、実はこんなストーリーが隠されていたのでした。きっと、どこのお店でもそんなお話がひとつやふたつ、あるのでしょう。なかなか窺い知ることのできない物語ですが、そんな物語をひとつ、お粗末ながらお話させていただきました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。